酩酊 五月雨 きみ 魚

「自称異常」な女と「自称正常」な女。

『圏外、くらいとこ。』

@『なんか、声が変わった。』「変わってへんよ、会ってへんかったから、そのブランク?ちゃうん。」


@数年ぶりに会った彼女は、昨日までわたしが知っていた彼女だった。変なの、数年間会わなかったことなんて信じられないくらいに、
わたしと彼女は、『わたし』で、「彼女」だった。
それはきっと、これからも"そう"で、
それを誰かは「これからもずっと苦しむんだね」と言うかも知れない。、それでもそんな不毛さえやさしく笑えるのは、

それらがわたしと彼女の関係を繋ぐ一部でもあるからかもしれない。
どうしても思い返してしまう、「あの日々」を確かにわたし達は「生きてきた」からかも、しれない。そしてその日々が、確かに「愛しかった、」
からかも、しれない。



@吐瀉物みたいなスムージーを飲みながら、会わなかったときの話もしたし、昔の話もした。思い出と言い切るには鮮明すぎて、彼女が放つ、「、くん。」と言う名前に、わたしは何度も安心したのは、彼女には内緒。


何でだろうね、沢山笑って冗談を言い合って
とても楽しい時間だったのに。
わたしは何処かで恐れていた。
回顧録が済んだ後、
彼女の口から、わたしの口から、
『これからのこと』『未来』、
それを聞くのも、言ってしまうのも
わたしはあのとき、
とてもとても、怖かったんだ。




@「恋愛と宗教の違いについて」。
「愛と信仰心の違いについて」。
「きみと神さまの違いについて」。


わたし『達』は、未だに考え続け、同じような疑問や考察をループさせる。地下にある、カフェ。「圏外」を表示し続ける携帯電話は、丸で彼女とわたし、そのものだった。


どうしてだろう、
答えなんて かんたん なのにね。


"考えるのを、諦めたらいい"



きっと、判りきってるくせに
どうして何時だって

人間とは、こうも、くだらない。
これが希望なのかも。諦めなのかも
判らない、ただ、くだらない。


くだらない、
判りきってるくせに、
そんなくだらないもので形成されるせかい


それでも
目の前で笑う彼女のことを
わたしは すき だったし
結局わたし達は、きっと何時までも わたし達なんだよな。
そんな残酷さが生み出したのが、
こんな 出会い だとするなら

ねえ、きみ。
人間はもしかしたら
棄てたもんじゃないのかもな。


@何て言うか、
書きたいことは沢山あるんだけど
(まあまた分けて書こう)(つまりはまたわたしの彼女へのデレ記事が続くわけだがまあ許せ)





わたし、は、
正直久しぶりに会った彼女を
変わらないと思った、
そう、変わらずに、確実に
死に向かって生きていて、変わっていく。



まあそれは
人間誰しもが そう 何だけれど。
違うの、
彼女の場合、老いるとか、
歳を重ねていくとか、
そういう意味でじゃなく。



それでもわたしは
きっと彼女がもしかしたら
本当に居なくなってしまうとき、

『嫌だ、死なないで』よりも、
『死ぬときは死ぬって連絡はしてね』
って、きっとそう言うんだと思う。


これはわたしにとって
レベル的にはさいこーの
愛情ひょうげん なんだけど、

きっと糞みたいな道徳心をもった
聖人は、わたしを
非道だと言うんだろう。


まあそれでもいいや。
目の前で笑う彼女が
可愛かったからそれでもいいや。




@とりあえず年内には
もう一回くらい会いましょう。

@あ、あと。
これ。ずっと何処かのタイミングで
いいたくて、
だから ここ で記しておく。
彼女と出会って、
ん?もうすぐ10年くらいなる?ならない?
初めて会ったときのことなんて
本当に忘れたよね。お互い。

でもね、
時々 ふっと 思い出すシーンがあって、
新大阪駅のタクシー乗り場の前で
待ち合わせていた彼女が
目を真っ赤にして泣いていたとき


その
前後も成り行きも日付も
曖昧すぎる 記憶でしか
ない、 のに

あの瞬間の彼女は
まだ、まだ、
わたしの中で生きている。
そして時々
思い出すんだ、何故かね。